発達障害について私が考える理由
最近、良く耳にするようになりました。
職場や知り合いの中でも、「あの人アスペルガーじゃないかな?」と思ってしまう人も多いのではないでしょうか。
正直に言うと、わたしもその一人でした。
わたしは、この道の専門家ではありません。
でも、何年もの間ずっと、心の中でこの「障害」について考えていました。わたしの記事を読まれる方がどのように感じるか、不快にさせてしまうかもしれない、などいろいろ悩みました。
でも、こういうちょっとした情報が、人への理解や優しさにつながるのではないか。そんな思いで書いています。
『きっかけ』
あれ?ちょっとこの人おかしくない?って思いました。
ちょっとした物事の考え方・捉え方・感じ方がなんか変。
ここでそんなに驚く?
そこまで怒る?
そんなに悩む??
などなど・・・。
でもこれって、だれでも普通に自然に感じること。
でも、ここまで真剣に考えるようになったには「きっかけ」がありました。
独身時代にルームシェアをした一人の女性との出会いがそのきっかけです。生活の中で、かかわりが深ければ深いほど、その人の個性って自分に影響してきますよね。ただの知り合いなら、ちょっと変わった人。で済まされます。
でも、一緒に仕事するとどうですか。ちょっと困りますよね。
一緒に暮らすとどうでしょう。それはもう大変です。(汗
でも、なかなか周りには理解してもらえないってこともあります。どうしたらわかってもらえるんだろう。
わたしの感覚が普通で、相手の感覚が普通じゃないということを。
そして、どれほどのレベルでおかしいのかを。
すごく難しいことです。相手の尊厳を考えると本当に難しいです。
まだまだ、「アスペルガー症候群」や「ADHD」という言葉もあまり知られていない時代でした。
ルームメイトが「おかしい」。
※もちろん、これは、わたしの目線からしてです。
「何でそうなるの!!」っていうことの連続で、わたしはイライラしてしまい、そのうち怒りを爆発させるようになっていました。
(自己弁護になってしまいますが、わたしは他人に怒りをぶちまけるようなタイプではなかったのに・・・自分でも本当にショックでした。涙 )
最終的に、彼女は「パワーハラスメント」を受けていると判断するようになりました。そして、2次災害のようなものとして、「うつ病」を併発しました。どうしようもない悲しい結果になってしまいました。
今なら、わかりますよ。もし、彼女がアスペルガー症候群であったなら、わたしは怒りを爆発させるべきではなかったのです。
理由はここでは割愛しますが、いろいろ勉強して後でわかったことです。
あれから10年以上たちました。
今感じていることは、自分と相手の感覚を比較して証明する必要はなかったのではないかということです。
この10数年、わたしも結婚したり、新しい友人もできました。
その中には、ADHDのお子さんを抱える親御さんや、統合失調症のご家族をお持ちの方もいます。「アスペルガー症候群」という言葉も耳馴れるようになりました。
最近本当に多いのです。
わたしの友人が保母さんとして受けた講演会では、「神奈川県の幼児、500人に1人が発達障害である」と指摘されたそうです。
それから、もっと身近でも考えさせられる出来事が起こりました。。
『もう一つの悲しい出来事』
親戚の女の子が、最初は「ちょっと内気な優しい子」だったはずが、なぜか「ひきこもり」になり「うつ病」と診断されて病院に通ううちに精神状態がおかしくなってきて、今頃になって「アスペルガー症候群」と診断されたのです。
この経緯を見てきたわたしには、どの診断も正しく思えませんでした。小さいころから知っている彼女は、ただちょっとおとなしくて内気で、良く話してみると自分の世界を持っている子でした。
「ちょっと変わっている」って思われたかもしれないけど、内向的でしたが本当にいい子でした。でも、ちょっと社会になじめなかった。ただ、それだけで、「ニート」だ「ひきこもり」だと言われ、責め続けられるうちに「うつ」状態になり、困った両親が病院に連れて行ったのです。
病院では、当然のように精神安定剤が処方されました。
一口に精神安定剤と言いますが、薬が本人に合うまで、いろいろな種類の薬を飲まされるのです。私が最後に会ったとき、彼女は、まるで別人のように変わり果てていました。
「ちょっと調子が良くなったから」と、ジャージにつっかけサンダル姿で都心の電車を乗り換え、わざわざ私を訪ねてくれました。前もって連絡してくれたらいいのに、突然、ある日、「まるで寝起き」のスタイルで、電車を乗り継ぎ、住所だけを頼りに訪ねてきたのです。
おまわりさんに住所を教えて家を探してもらったり、留守だからといってアパートのとなりの家をノックしたり、確かに、本当にもうおかしいですよね。
精神科の先生は何かの「病気」「障害」と診断したくなるのはわかります。
でも、本来の彼女を知っている私は、変わり果てた姿に涙が出ました。はじまりはささいな「違い」しかなかったはず。しかも、彼女にとっては普通のこと。
ただ、世の中で「健常」と見なされる多数波の「枠」に、彼女はそぐわなかった。少数派だっただけ。
それ以来、わたしは真剣に考えるようになりました。
小さなことですが、夫婦の間でもあります。「私的には信じられない。わたしだったらこうするのに!」っていうこと。
正直、夫には申し訳なかったけれど「もしかして夫はADHDなのでは??」と疑ったこともありました。でも、調べていくうちに、いろいろな事がわかりました。
■その「おかしさ」が深刻なものでないのであれば、「個性」と見なせば良い。
相手を「病気」や「障害」と決める(診断)する必要はないこと、そのままを受けとめてあげることの大切さを訴えているお医者さんがたくさんいます。
■例え、深刻な程度であったとしても、それは本人の責任ではありません。
脳科学の進歩により、生まれ育った環境・食習慣や栄養素などの影響で、脳のある特定部分が未発達であるだけの場合が多いことも分かっています。
そして、その未発達部分は特定のトレーニングで改善できること。
脳科学者・加藤先生の脳の学校をみると希望が持てます。
■日頃の食べ物がかなり影響しているということも分かってきています。
特に、粗悪な小麦粉が脳に与える影響を知って恐ろしくなりました。
私は、神経科医デイビッド・パールマターさんの著書『「いつものパン」があなたを殺す』を読んで、菓子パンやインスタント食品など一切食べたくなくなりました。そこには、ADHDや学習障害と診断された子供に、たった2週間小麦粉製品の接種を控えるよう親に提案しただけで、全く普通の状態に改善したとありましt。
もちろん、どうにもならないケースもあります。
遺伝だけではなく、育った背景やその他の環境によって、人格障害や愛着障害などを併発することもあります。
■ではどう踏まえたらよいのか?
脳の専門家の方の本を読んでから、こういう問題をどう踏まえたらよいのかが段々と理解できました。結局のところ、「アスペルガー症候群」という名前の通り、これら「発達障害」は「症候群」つまり「スペクトラム」のことであり、ここまでが「健常」で、ここからが「障害」で、という境界線はないとのことなのです。
それは、個性の延長線上にあり、誰でも「度を超す」なら、現代精神医学で言うところの「発達障害」に成り得るわけです。明日は我が身ということ。
だからもう、「あの人はアスペルガー」で、「そこの人はアスペルガー寄りのAD」で、「この人はADHDなんです」などと、分別する必要などないと思いました。
それよりも、その方本人が持っているかもしれない「光る部分」に目を向けてあげられないものでしょうか?
また、ちょっと「手助け」をしてあげるだけで、その方は「幸せ」でいられるのではないでしょうか?
なぜ、そうなってしまったのか「察」してあげるなら、親切に出来るのではないでしょうか。。。
こんな風に考えると、「発達障害」という病名すら、微妙で大きな誤解がを呼び「差別」と「生きづらさ」を生みだしているような気がしてきました。
もっと、優しい目線で、すべての人が心地良く生きられるそんな美しい世の中になって欲しいと思います。